ヤられた!!

うおおおおお!! 元気出たーーーーー!!って事で、本日、知り合いの方が関わってらっしゃる演劇を観に行ってきました。


すんげぇ、おもろかった。

畜生。

すんげぇ、おもろかったんだよ!!


ヴァァァァ!! ぐ・や・じ・いいいいい!!(地団駄)


ああもう、私がこうやって悔しがる感情というのは、醜いのか否か?
いや、美しい筈だ!
この悔しさは美しい筈だ!!(自分を納得させ中)



なんだろな。


役者さんも皆さん、地元の普通の素人さんをオーディションで呼んでて、そりゃ巧いヘタはあったけど、巧い人だって、ちゃんと別に仕事を持ってらっしゃる方で、脚本書いてんのもプロじゃなくて、なんだろな。


一つ、開眼したな。


やっぱ、人間には「才能」などといふものはないのかもしれんとか、打たれた。
乞うように、欲しがったものだけど、それはまさに「ないものねだり」だったのかもしれん。



有る一定のラインまでは皆、努力すれば到達できていて、そっから先に行くのには「才能」がいるのではなく「運」とか「根性」とか「なりふりかまわなさ」とか、そういうのだ。
そういうのを発揮できるのを「才能」というのだ。
格好つけてては、いかんのだ。
自分を、ちゃんと見て、理解して、何が必要か見極めて、そして愛さねばならんのだ。


自己顕示欲を馬鹿にしてはならんのだ。
たくさんの人の、たくさんの自己顕示欲の成れの果てに、今日の舞台があって、それが本当に美しかった。
格好つけてちゃ、だめだ。
だめだめだ。
脚本書いてた方とお喋りしてて、それに気付いた。
「見て! 私の話を見て!! そして、感想を言って できれば、褒めて!」という、あの欲望の美しいことよ!!


生まれながらの「天才」というのはきっとないのだ。
だって、役者さんたちも、ほんに素敵だったのだもの。
脚本も、ほんとに素敵だったし、演出も素晴らしかったのだもの。


あれを、「才能」などといっては、失礼だよ。

あれは、皆が一緒になって努力して、頑張って作り上げたものだよ。


そうだよ。 皆血反吐を吐くくらい頑張れるかどうかが鍵なのだ。


「才能」などというもののせいにしたり、おかげにしたりして、諦めたり、愚痴ったり、そういうのはやめた。


私は、もう、あっさり認めると奢ってたのかもしれない。
ちょっと、自分を高く見積もりすぎていた。
今日も、それほど期待せずに行っていた。
知り合いの芝居だから。
明日見る、芝居の前哨戦に…とか考えてた。


奢るな、ばか者の癖に!


でも、全然だ。
全然だった。
気付いてたようで、気付いてなかった。



あの人たちは、努力とか、根性とか、そういうのをきちんと積み重ねて、苦労して、汗かいて、そうやって、あの舞台はあったのだ。


努力ってださいし、汗くせぇし、芋っぽいけどさ、けどさ、やっぱし美しいよ。


私、努力足らないよ。

血反吐なんか、吐いたことないよ。


手の筋肉が痙攣して、何度も掌を歯で噛んで、震えを押さえて、そうやって書いてた時期はあったけど、血反吐はない。


演出の方が、にこにこしながら「脚本書いた方褒めてやって下さい」って仰ってて、なんか、嬉しい悔しかった。


あああ、負けてらんないなぁ…。


遠い世界の人の素晴らしい作品には、こんな気持ちにはならないのに、近しい人の作品だと、こんなに燃え立たされる。


よかった。
今日観に行ってよかった。


もうちょっと、ちゃんと、何かを諦めるという事を知ってよい年齢になるまでは、私は「才能」というものを求めないし、「才能」のせいにして何かを投げ出したりはするまいと、今日決心しました。


才能ってないよ。

人間に、きっと才能なんてものはないよ。



あるのは、「運」と「ド根性」なんだ。