これは哲学か否か?

友人の話。

先日会った友人が書いている日記を偶然見つけて読んだ。

私の事が書いてあって、ちょっと腰が抜けた。

私という人間は「私」という存在を、他の人が認識してくれてるかどうかという所を物凄くあやふやに捉えていて、私自体は私が「在る」という事をきちんと理解できているのだけれども、私以外の人間が私という人間が「在る」ものだよという事を記してくれたりすると、私って、あの人の目から見て、こう「在る」ものだったのか!という驚きと共に、単純なのですが私自身の存在がちゃんと現実の世界に「在る」ものとして捉えられているという事に対して喜びを感じてしまうのです。


だって、自分が透明人間ではないのだ!!って心から思える瞬間って、実は結構少ない。
他者から自分は、きちんと「認識」されている事を確かめる為に(どういう見方をされるのかは、また別問題として)、人は自己顕示欲という欲望を自己開発したのかもしれない。
なんとなくですが、性欲や、食欲や、睡眠欲等は神様が下さった欲望のように思えるのですが、自己顕示欲とは、人間が自分で開発した欲望のようにも思えるのよね。
では、自己顕示欲とは孤独を厭う欲望なのか。
寂しい欲望なのか。

うむ、どうなんでしょう?
でも、自己顕示欲ない人もいるものねー。
ヘンリー・ダガーとか(ゆっきーに教えてもろうた。 あの人は、ほんとに色んなことを知ってなさる。 私は無知だなぁ。 何にも知らないなぁ…。 ヘンリー・ダガー読みたいなー。 でも、本が六千八百円もするんですよ!! どうしよう!! ああ、でも、ヴィヴィアン・ガールズ達の変態的欲望によって生み出された、健気な戦いの行方を知りたい!)

自分自身が他者から見てどう「在る」かどうか、気にならない人間はいない訳で、例え、それが公の場所にある日記に書くために作られた言葉だとしても、その言葉を「作ってくれた」事自体が嬉しい。



というか、その友人が書いてくれた言葉が、何しろ言葉を扱うことに関しては間違いようのない美意識を持っている人なのですから、凄い言葉過ぎて、私は挙動不審になってしまっていて、だからこそ、彼女が此処を知らないと知っていて、こういう日記を書けています。

例えば、一人ぼっちで海とかで遭難したり、山で迷ったり、暗闇に閉じ込められた時、その時自分は自分自身を「在る」ものとして認識できるのかしら?
いや、痛みや感覚ゆえに、その自分自身の存在を疑う事はなくても、現実世界という場所に果たして自分自身が存在しているかどうかって疑わずにいられるものなのかしら?
ああ、然し、本当に生命的に困難な状況ならば、そちらの問題を解決する事に一生懸命で、余計な事を考えないのかしら?
でも、私は、お腹が空くと、それで気持ちが一杯になってしまうから、やっぱり哲学とは無縁な生き物なのかしら?


おお、だいぶ脱線。


レゾンテートルというものに対して私は酷く懐疑的なのだけれども、例えばそれを身近なものや、とても暖かなものや、優しい想いに見出している人はきっと素敵だ。

本当に、友人が私という人間を彼女なりの言葉でもって示してくれていた事が酷く嬉しい。


いや、違う。
単純に褒めていてくれたから嬉しいのです。
思いもよらない言葉で褒められて、凄くうれしいのです。
褒められるっていいねー!
幸せだねーー!!
私も、もっとどんどん褒めよ!
素敵なものは、素敵とどんどん言っていこう。



結局着地点は、子供視点。

ああ、やはし、私と哲学との距離は遠い。