イッセー尾形につくられた!

秋も深くなってきて、肌が大層寒い。
海の側にある職場は、朝の通勤時にはほんとに寒くて、バイクにのりながら「ひぃ」と震えてしまいます。

そして、天テレの最終回の感想も書き損ね、色々書けてないのにも関わらず、「イッセー尾形のつくりかた」ワークショップにいってきました。

一言言いたい。

どうしても言いたい。



イッセー尾形&森田雄三さん(イッセーさんのお芝居の演出をなさっている方)怖ぇぇぇぇぇぇぇぇ!!!

すんごい、怖い。
滅茶苦茶怖い。
イッセーさんとか、静かに怖い。
森田さんも、心底怖い。
言葉が端的で怖い。

例えるならば、そう、小学校で組体操の練習をしている時の体育教師位怖い。
だって、「何やってんだよ!」「動くなっていってんだろ!」「止まれよ!」とか、森田さん言っちゃってるんだよ?!


あああ、そーだよ、思い出したよ、平田オリザさんの時もそうだったんだよ。
いや、平田さんの怖さは本人の「頭の良すぎる事」故の怖さであり、あの怜悧さ、自分が圧倒的に見下されている事と、その見下されている事を受け入れざる得ないほどに人類としての違いさへの恐怖感を抱いたのだけれども、イッセーさんや森田さんのはもう、本質的に、表層的に怖い。

叱られる事が怖い。

切り捨てられる事が怖い。

ああ、先生に媚びて気に入られようとする子が絶対にいた、小学校時代を思い出す。
ワークショップってそうなんだよ!
媚びてしまうのだ。
評価が欲しくて。
伸び伸びとなんて、無理ですよ。
自然体という言葉がどうしようもなく不自然なように、あぁた、あすこは、どれだけ「無心」を装えるかの場でもあったような気がする。
それすら、小賢しいと切り捨てられ、物凄い勢いで、皆が色んなものを剥がされていく様を私も、私の皮を剥ぎながら、呆然と眺めているしかなかったのです。

そういう場における第一欲望であり、全てとなる自己顕示欲よ!

自己顕示欲の発露の形が「対世間」や「対他人」ではなく、「対講師」になるんだ。
講師の評価が全てとなり、講師に全て委ねる、支配されてる感を物凄く味わえるイベントだったんだよ!!

おおお、という事で一日目、やー、もー、頭痛ですよ。
本気で。
物凄い怖い。

演じるなというのだ、森田さんは。
そうだよ、素人なのだもの。

演じたって演じれるものでないのは分かってるのさ!
そして、演じる事の小賢しさも知ってるし、みっともなさも分かってる。
でも、着地点が分からない。
取り組み方法が見えない。
正解はない。
どこにも。

それでいいと笑っていて、四日間くれば分かるよと言ってもらって、私は、たった四日なのに、今日のあまりの疲労感に、その道のりがとてつもなく遠いように思えてならない。
心底だ。
心底、舞台に立ちたくない。
心底、何も喋りたくない。
心底、イッセーさんや森田さんの前で「何か、演技的なこと」をしたくない。

なぜならば、それは、明らかに「埋没」する行為だからだ。
自分がとてつもなく退屈で、取るに足らない存在である事を思い知らされつくした。
理解しているのに、肩を掴んでいい聞かされた気分だ。

私の性根は、確実にサドなのだけど、今日は完全にマゾ側に追い込まれた。
私自身には、当然さほど注意を払っては貰わなかったけれども、他人への言葉を聞いている最中ですら、私の平凡さをこれでもかと、暴かれたような気がする。

歩きなさいと言われて歩いて見せて、イッセーさんに「それは勘違いしている」と言われた瞬間の身の竦む感じとか、森田さんに「面白くない。 はい、もういいよ」と切り捨てられた瞬間の、敗北感が、すんごいね、おおお、今振り返ると、トラウマになりそうなのに、心地がよいのです。

心地よい恐怖だ。
初体験だ。

委ね、圧倒され、評価され、一喜一憂し、自己顕示欲の塊となる。
私は、さほどワークショップに参加した経験はないのですが、あすこに渦巻く業といったらないですよ。

80人、小さな市で、80人の参加者がいるのです。
フツーの人たちのフツーな自己顕示欲とフツーのやる気。
どんな事しようが、少々目立とうが、もうね、私が、森田さんだったり、イッセーさんだったらねえ、覚えてらんない、みんなのこと。
私は、私を忘れるね、絶対。
いいんですよ、それで。
だって、フツーの人々を集めたかったのだから。

とにかく、今、私は言葉という自己防衛策を行使し、客観性を取り戻そうと必死になっているのですが、それでなくては、あの、何がなんだか分からない業の渦に取り込まれそうで、皆が何とか変わったことをしよう、奇異をてらおうとして、それを否定され尽くし、そのうち無になっていく様に飲み込まれそうで、瞼を閉じれば思い出すのは、ちょっとした見本を行うだけのイッセーさんの動作の美しさ、所作のシュッとした機能美、それでいてたりらりらーん♪と全てが気軽に見えるところ、だのに、圧倒的に厳しい声音といった事柄ばかりで、そうです、客観性も何も、私ってば私の本能に従って「ミーハー」である事に全力を尽くしてしまったのです。

イッセー尾形、怖いのに、かっこいいのな!
やめて、そのかっこよさ!
釘付けになるから!
私のミーハー性と、現在の状況を全力で言語化したい物書き欲の狭間で、森田さんの言葉のシャワーに打たれすぎたせいでの、今頭痛と必死に戦っているのですが、あああ、もう、しんどいよ。

本気でしんどいよ。

ミーハーになって、皮をむかれて、媚びて、焦って、よく見られようとして見抜かれて、本当に疲れきってしまいました。
もっと、私は、自然でありたい。
不自然で構わないので、構えず、ぼんやりと他人が困る様、焦る様を眺めて和みたい。
そして、どこかでそれを文字にすることを夢見ていたい。
面白い場面、面白い人、面白い瞬間たくさんあったのに何も覚えていない

覚えているのは、「歩きなさい」と言われ、眉を下げ困り果てる私を眺めていた、あの目だ。
どうして、私の好きな役者さんは皆目が怖いのだろう。
皆、眼に運命をもっているのだろう。
何の感情もない、凄く凄く怖いイッセーさんの目。
温度でいうならば、まさに0度のところにある、マイナスにもプラスにもいかない、あの眼差し。
私はワークショップに参加している間、違う事を考えたり、ちゃんと色々学んだ筈なのに、あんな眼をしていて、あの人は俳優になるしか生きようのない人なのだろうなぁというそういうことばかり考えてしまっています。
他に生きようのない人っているんだなぁ。
それは、才能とかそういうのではなく、「選択肢のなさ」という意味での運命だ。

演じてない役者を見て、何か感想を持つだなんて、不遜だとは思うのだけど、そして俳優に演出をつけてない時の演出家を見て、何かを思うのはもっと不遜なのだけども、えぇと、信頼しあっている2人だなとも思いました。
中島さんと、いのうえさんもあんななのだろうか?
言葉は、殆ど交わさないのに、同じ世界に生きている人同士な気がした。
そんな事を思ってる場合じゃないのにね。
そこを観察していなきゃいけないわけじゃないのにね。
ちゃんと、他の参加者を見なさいといわれたのに、そして私はちゃんと見ていたのに、覚えているのはあの2人のことばかりで、ああ、それが、そうかフツーではない、「特別な人」という事だと今やっと納得しています。

私は完全無欠にフツーだからね、どうしても、特別を見てしまうのです。
どうしても、「特別」を鮮明に刻み付けてしまうのです。

明日のワークショップ、心底怖くで、心底不安なのに、滅茶苦茶楽しみです。
きっと、また、ぐったりと疲労させられるのだろうなぁ…。
ああ、刻み付けなければ。
見ておかなければ、勿体無い。
すごいですよ。

凄い楽しい。
ああ、今日は私のスタンスを見つけ損ねているけど、明日は大丈夫だ。
私の立ち位置をちゃんと定められる。
そうしたら、そこに座って私は動かず、観察し続けてやる。
全部、全部だ。


さて、そんな風にワークショップを通じて、東京のお芝居っぽさに触れている私ではございますが、大阪の朧は、私は取り損ねてしまっているのだけども、一般発売日が私の誕生日である事からも何か、安心してしまってます。
うん、千秋楽狙っちゃうよーー??
だって、誕生日だもの!
お願い、神様、プレゼントプリーズ!!


そして、「僕の歩く道」第6話の感想。

「約束を守る」という事、「約束をする」という事、「約束」で結ばれるという事。

よくさ、「約束なんて、破るためにあるんだよ!」とか聞いちゃうし、私も言っちゃった事何度もあるし、そういう心のあり方っていうのも一つの真実ではあるのだろうけど、やっぱり「約束は守る」という事が正しくって、橋部先生はそういう、単純な「正しさ」を真摯に書いてきて、凄く素直に、「ああ」と頷かされる。

捻くれてないという事の美しさに尽きるなぁ。
真っ直ぐな道は、やっぱり気持ちがいいのだ。

ひねくれてない事を、ちゃんと面白く書くというのはすんごい大変な事で、私の事を書いてしまうのは大変恐縮だし、おこがましいのだけども、私は「淡々」としたものを、「面白く」書く手段すら見つけられてなくて、偏に映像の力、役者の力と言われればそれまでだけども、いやしかし、このキャスティングで、このお話を、あの台詞達を書き続ける橋部先生の胆力と、度胸と、技術に惚れ惚れしてしまう。

ドンデン返しやら、裏切りやら、ひねくれてみたり、やけにショッキングな事を捻り出してみたり、そういう事のない話。
悪意のない、静謐な、しかし優しいと言い切るには、何処か残酷なまでに現実的なお話。

この、物凄いバランス感覚はどうなっているんだろうなぁ。
陳腐になる一歩手前で、どうしてこうも踏みとどまり「美しさ」を作りだせているのだろう。
これも美意識か。
これも、センスなのか。

橋部先生の欲望が見えない。
誠実で、真摯である姿の奥を見せてないのか、そもそも「静謐」こそが橋部先生の欲望なのか。
ギラつくものだけが、「欲」ではないのか。
たぎるからこそ「欲」ではないのか。
温度のなさが凄いなぁ。

静かな世界を、淡々としたその全てを、創作者としての欲望のままに作り上げているのだとしたら、橋部敦子という人は作り手として、あまりにも底知れなさ過ぎて、理解の範疇を超えてしまいますね。
人間を書くというのは、殊更の心理描写なくとも、殊更の大げさな心情吐露なくとも、こんなに見る者の身に迫れるのかと、本当に驚く。

潔いまでに、橋部先生は「ドラマ脚本家」だなと、僕シリーズを見て感じてます。

そして、出演者の方々も、よくも、まぁ、ここまで「抑えた演技」をなさるものだ。
演技とは思えない!などと白々しい事を言うつもりはないが、しかし、リアルだなぁと思う。
現実を知りはしないのだけど、それでも、「リアル」ではある。

そんな一滴の汗も、血も流れないこの世界で、第六話、古賀さんが悔恨の涙を流していた。

恥を知っている人の泣き方だなぁと感じました。

古賀さんが思い出していた過去の自分は、余りにも生々しくて、私の中に「ああ、覚えがある」という感情を引き起こした。
ある、ああいう時ってある。
そして、ああいう時、確かに人は卑屈に笑う。
誤魔化すように。
自分の中に沸き起こる、羞恥心を何とかやり過ごすために。
他人からの非難を真正面から受け止めるのを避けるために。

小日向さんに撃たれてしまった。


で、第七話。

ワークショップ後なので、頭がグルグルしてしまって巧く言葉にならないのですが、役者の怖さを少しだけ見た後だ
からなのか、静けさの中に凄みを見出してしまいました。
演じるって、しんどいよ、私には絶対に無理だし、やりたくない。
絶対やりたくない。
演じる事は、もういやだ。
だから、私の視点の変化に過ぎないのだけど、草なぎ剛を凄いと思う。
行けない道へ甥の為に漕ぎ出そうとしている姿を見た瞬間、自然に「がんばれ」って思ってしまって、あの人はテルなんだなぁと今更感じました。
幸太郎との話は、みんないいなぁ。
三浦さんもそうなのだが、無理のない接し方というのか、どういったらいいのだろう?
何一つ余計なものを含んでない感情で、テルに接しているように見えるのだ。
自閉症の人に接する時、ああいう風でありたいなぁと思う。
同僚以外の何者でもなく、甥以外の何者でもなく、そして友達以外の何者でもないように見える。

あと、真樹さんと、秀治さんがちゃんと会話をする姿に凄く安心しました。
大事だよね、ちゃんと話し合う事って。

眼鏡屋さんでも、お母さんは笑ってる方がいいってくだりが、凄く素敵で、幸福で、ああ、よかったなぁって、この家族は、もう大丈夫だなぁって思いました。
色々ありそうだけども、来週も楽しみだなぁ。

という事で、天テレ最終回感想は明日!!
もう、疲れました!!
私は寝ます!!