稽古は終了

先ほどまで友達と飲んでおりました。

私は友人に「私はねぇ、比喩でなく、イッセー尾形に恋をしてるんだ!」と力説し「灰谷先生っ! 私は、どこへ行けばいいって言うんですかっ!」喚き、混乱し、醜態を晒し、カシスカルピスを片手に、「妄想をするんだよね。 水族館に行くんだ、イッセーさんと。 そして、イッセーさんは、イルカショーで、ひらりとイルカの上に乗り、私は手作りサンドイッチが入ったバスケットを膝の上に載せ、手拍子を打ちながら城みちるの『イルカに乗った少年』を熱唱するんだ。 いや、『名残雪』でもいい。 ここは、イルカの名残雪でも、構わない」と、夢のデートプランを恋する瞳で一頻り語り、また、「灰谷先生っ! 私の歩いている道は正しいんでしょうかっ?!(多分、そのデートプランは違う。 そこまでアクティブな人ではない。 ていうか、色々混乱が凄すぎて、最早、本当に何処にもいけなくなってる)」と嘆きました。

意味が分からない。

着地点がない。

おおお、混乱の只中にいる状態は続いていて、意味もなく涙が出るような心境で、今日も仕事中何度も何度も人のいないところで涙を零していた。

しんどい。
ほんとに、しんどい。

しんどい続きの今年、総決算がやってきてる感じがする。
ここが乗り切り時か。
これが乗り切り時か。


何がしんどいのか、しんどいの正体すら見つからないのに、私はこのしんどさすら何とか言葉に代えようとしていて、その貪欲さに呆れ果てるやら、誇りを持つやら、ただ、何とはない不安感と、恐怖感、それから曖昧な絶望感のように苛まれて、私はとにかく呼吸だけを確りと繰り返していた。

ただ、今日もワークショップにはちゃんと参加して、私はその間「至福」に浸らせていただいた。

芝居が始まった。

芝居は好きです。
芝居は、本当に好きです。

ひょい、ひょい、ひょいとイッセーさんが膨大な数の参加者を、イメージで組み合わせ、その組み合わせた人々の姿からその場で森田さんが話のような「空気」をつけていく。
見事であった。
どうなるか分からないと思っていたことに、道が見え始めた。

まさに、歩く道だ。
「ら」の皆様と、イッセーさんが歩いてきた道の結果だ。

ああ、幸福だった。

芝居だ。

芝居が、一杯見れた。

灰谷先生、私、「お芝居」が大好きなんです。

嘘が昔から好きだったので、お芝居、大好きなんです。



「台本どおり、設計図どおりの事を、外れないよう、きっちり役者にやらせる。 これが芝居の大前提になってるけど、俺はそんなの演劇じゃないと思っている」



何故か、項垂れてしまった、森田さんのお言葉。

新感線ファンなので、とりあえず「おおお」と呻くしかない。

いやいやいやいやいやいやいや。

どれが正しいのではない。

何が正解なのではない。

新感線こそ、いのうえさんという鬼才の示すレールの上を彼の思い描くとおりに走れる役者こそ優秀という絶対基準がございますが、それも、当然演劇なのです。

イッセー尾形さんの一人芝居も、勿論演劇なのです。

多種多様なのです。
観客の取捨択一なのです。

私が、古田新太イッセー尾形がやっている事を求めずイッセー尾形に、新感線でやっている事を望まないように、それは、それで、あれは、あれなのです。
どれかを侮るまいことよ。
私の眼は、全てを見て選んでいる。

イッセー尾形はいい男だ。

そういう風に選んだのだ。

古田新太もいい男だ。

これが自然の摂理なのだ。


おとといでした。
私達が稽古をさせてもらっている、文化会館の大ホールで、GLAYがライブをやりました。

若い女の子がたくさん来て、私はその間をすり抜けながら、小ホールにて森田さんとイッセーさんのワークショップに参加しにいったのですが、うん、凄くない?

ねぇ、三重、その瞬間、凄くない?


GLAYと、イッセー尾形だよ?

どちらも、ある世界の頂点を見てて、何か、こんなにニアミスってるのに、絶対挨拶とかしあわなそう!!!、お互いがお互いの事、全然知らなさそう!!と、一人喜んでみたり。

この住む世界の違いすぎる二大スタァがこんな小さな地方都市に、ようこそ!って感じで、GLAYが熱唱中に私達はたりらりらん♪な世界で、ひぃひぃ言わされていて、ああ、不思議、不思議〜♪と思いながら「ヨーグルトと納豆みたいな組み合わせですよね」といったら「どっちが納豆?」って、参加者の方にギラギラリンっとにらまれました。


どうも、演劇ファン、それも、イッセーさんとかの世界(ここを、私は糸井重里周辺と読んでいる。 別に、タモリ周辺とか、それこそイッセー尾形周辺でもよいのだが、まぁ、「ほぼ日」的な感じを思い浮かべていただけるとよいのでは? つまり、大人の粋を知ってるって奴ですよ。 大人の粋の世界で、子供的にスナフキン的に、生きてる感じですよ。 下北とかのカフェで、「いいよねー」って訳知り顔で語られそうな世界の事ですよ(偏見)(どうして、私はここまで下北を憎むのか?)(いや、好きなんだけどね! 好きなんだけど、あの『私達ってお洒落v』的空気が、むぎぃってなるのよ。 特にヴィレバンがね!! ヴィレバンの店員ってなんか、イッセー尾形好きそうじゃん! ポップで、如何にも、分かってる風な宣伝文句を書いてそうじゃん))がお好きな方は「GLAY」とか、イヤみたいで、ちょっと否定的意見なんかを耳にしてしまったのですが、いやいやいや、そんでもさ、そんでもさ、ここは、イッセー尾形が納豆でいこうよ…と、広大なネットの世界の片隅で今更呟いてみたり。

そこはね「納豆」でしょ。

だって、見回してみて。
私含め、参加者見回してみて。

はい、納豆!!!

外にいた、若いキャラキャラの女の子達がヨーグルト。

ああ、納豆には納豆が引き寄せられ、ヨーグルトの世界にはヨーグルトちゃん達が集うのです。

しかし、確かにイッセーさんのがいい男だけどね!!(私基準です!! GLAYファンの方々の気分を害したくて書いたわけではありません!)


今日は、芝居をたくさん見れて幸せだったのと名簿を見ながら、全員が呼ばれたのですが、イッセーさんに「momiziさん」と名前を呼んでいただけたのと、森田さんが「イッセーさん、イッセーさん」ってお名前を呼んでる時の声が、大層、カワイイのを知れたのが幸せだったなぁぁ。


あ、そうだ、そうだ。


私は、「自己啓発セミナーに参加している自分に自信のない女」をやる事になりそうです!
うへへ、どうしたものだろう。
演じるなんて、やっぱり難しい。
演劇って、ほんとに難しいね。

戯曲塾の時は私のフィールドにいれたから、こんなに惑わなかったのに、今は惑いまくりだ。

イッセーさんが舞台の上の孤独について、少しだけ言及なされた。

昨日、イッセーさんの一人芝居の孤独に対して思いを馳せたから、ちょっとびっくりした。

何人かで組んで舞台の上に立つのだけども、その事に対して「よかったですね。 怒られて、怖い思いをする仲間が増えました。 舞台の上では『孤独』ですが、『孤独』と『孤独』を寄せ合って、支えあって頑張ってください」と仰っていてあの人は、やっぱり孤独だったのか、と分かった。


孤独だったんですねぇ。

森田さん、イッセーさんは孤独だったそうですよ。


だから、あんな眼になって。

怖い眼だと思う。

私は、あんなに寂しい眼をした男を見た事がない。


なんか、一つのところで、絶対にぐるぐるした事のある目だなぁと今感じている。

出口のない場所で、ぐるぐるした事ある眼だなぁ。


参加者の方々全てが、『芝居』の中に存在する事で、キラキラ輝き始めていた。

私は、凄く楽しくて仕方ない。

ベトナムに強制送還され、娼婦になるしかない女の子(らしい)が呟くように歌う歌声の、寂しさや、その少女の事を一心に想っているのに救えない、無力感に打ちひしがれる二人の男。

お母さんに出てかれた、お父さんを明るくふざけて元気付けようとする少女2人と、後ろでパントマイムを続ける滑稽だけど愛しい道化。

お葬式で、関係ない話をし続ける二人の間で泣き続ける子供と、やはりそこにも現れる見えない道化。

車の中、親戚に預けられてしまう娘と、その娘を空回りしながらも明るく盛り上げてあげたい叔母と、娘を救えない父親の悲しみ。

自己啓発セミナーで、見事な演説を見せる先輩に感化され、一人一人頑張ってみるのに、やっぱりどこかがおかしい、情けない参加者達。

不況にあえぐ出版会社支社で、自分たちの首の運命を握る部長に憤りながらも疲れ、諦めている社員達の前で、無関係な話をして余計怒りを煽ってしまう、駄目な部長。

何でも器用に出来る女性の真似をするけれども、どれも巧くいかずに、「ごめんなさいっ!」と謝り続ける女達。

面白いなぁ。

面白い、これ、全部、それぞれ、自分が知ってるちょっとした、何の関係もない話(私は寺山修司の話をしているのだ)をして、出来上がっていく芝居の数々なのだ。

面白いなぁ。

あと、こうやって書き並べてみると、どこか、みんな物寂しい。

何処かみんな、悲哀がある。

でも、見てるとね、笑えるんです。

ピエロ的な笑いというか、その場では面白いけど、後からじんわりみたいなね、あああ、楽しみだなぁ。
明日、皆さんどうなっていらっしゃるのだろう?

そして、イッセーさんの舞台を見るのも明日だ。

ああ、凄い楽しみだ。

この恋を深めてしまうのだろうか?


明日だ、明日。


おやすみなさい。