凄まじいものを見た

なんだよそれ、なんだよそれ、なんだよそれ。

なんで、舞台の上で、貴方はそんな眼をしているのだ。
舞台の上のほうが「眼が怖くない」ってどういう事なんだ。
舞台の上では「眼」すら、変幻自在なのか。
眼の色すら変えられるのか。
本質の一片すら出さずイキイキと姿を変えていく、その眼は、まるで、自由で、掴まえ所一切なく自由で、こんな場所で、こんな自由になる役者っていて良いんだろうか?って、ドキドキした。

どうして演じるという事に縛られている最中に、貴方は解放されているんだ。
雁字搦めの鎖なんて、見えないのか。
役に縛られる事がありえない、あの軽さ。
声が、仕草が、キャラクターが一変していく鮮やかさ。


重力がないのか?
足音がないのだ。

実際の話。

足音がないのですよ。

変な靴を履いていてね、白黒の縞々なんだ。
可愛い靴。

まるで、チェシャ猫が穿いてそうな。
それで、猫背で歩いてね、しかも、その靴に合わせて白黒縞々のボーダーシャツを着てきたりする。
意味が分からない!

畜生!

可愛いなぁ!
あんな格好、他の54歳に許されるだろうか? いや、されまい!
近所にあんなおじさん住んでたらどうだ!(職業 会社員とかで) もう、なんか、噂になるだろう。
主婦共は子供に警戒を促し、子供は子供で、道を歩いているのを見かけると訳もなく後を付回し、コソコソ笑うだろう。
だって、だって、サングラスをずっと頭の上に載せているんだ。
サングラスをだよ?
今時、デザイナーでも見ない!!
リカコだってやんないよ?

しかも、眼鏡も掛けるんだ!
一度、頭のサングラスを外して置いてから、別の場所から取り出した眼鏡を掛けて書類を読み出す姿を見た瞬間、私が今まで観察してきたイッセー尾形を一瞬で見失ったからね!!
じゃあ、サングラス取ればいい!
頭の上から取ればいい!!
そのサングラスには一切意味がないのだもの!
ケミストリーの川畑さんだって、最近やっと取ったのに!
しかも、「歌いにくい」という「え? 随分今更な理由だよね? それ」という理由で取ったのに!

嘘!
取らなくていい!
かわゆいから取らなくていいよ!
むしろ、世界中の男がとりあえず、眼鏡を頭の上に載せて、自分がかわゆくなれるかどうか、確かめた方がいいよ!
そこを、ある種の基準値に定めてみたほうがいいよ。
ちなみに、私は自分の眼鏡を頭の上に乗せてみて、鏡に映ったその純度100%といった「阿呆」っぽさに、「オデコの眼鏡がでこでこでこり〜〜ん♪」と歌ってしまったよ。

猫みたいに足音なく歩き、猫背でたりらりらん♪と動いていた、イッセーさんは、今日最後に「ダメだにゃー♪」と歌っていて、私は自分がドツボに嵌ったのを確信した。

掛け値なしの天才を見せられると、ほんとに、色んなものが瓦解する。

正直、真っ白になった。
今まで見てきた芝居も、これから見るであろう芝居の事も、全部真っ白になって、芝居という言葉から即連想されるのは、今日見た風景ばかりだ。

心地よいなぁ!!
滅茶苦茶心地よい。

あああ、もう、どうしようもないなぁ。
恋とか言ってるバヤイじゃないだろう!!

超凝視である。
恥じらい一切なしの、凝視具合である。

いいね! 舞台!!

遠慮なく見れる。
ワークショップ中、イッセー尾形を見れるはずがない!!
てか、芝居が好きだから、眼の前で芝居的な事をされると、そちらに集中してしまう。
自然、見れる時に見てるイッセーさん(所謂ダメ出し中とか、見なきゃいけない時ね)ていうのは、横顔だったり背中だったりして、何だかマニアックな部分に注視していたりしたし、フラストレーションもたまっていたせいか、芝居最中の視界の狭さといったらなかったね!
他の世界、一切なし。
当然だ!

だって、イッセー尾形だぜ?
セット一切ナシでも、本気で見えるんだ、背景が。
楽屋が、古いアパートの一室が、駅のプラットホームが、公民会館のホールが、潰れかけた旅館が、ロシアにある和食料理店が、一杯ファンシーなものが飾ってある一人暮らしの女の子の部屋が、見えるんだ!
勿論過ぎることながらも、手加減なく凄い。

極上なんだ、あの空間が。
あああ、明日も当日券取って観に行くね!

絶対観に行くね!

だ・け・ど!

ワークショップに参加している方で「観劇」を趣味とされてる方は然程おらず、私が「明日も見ようと思います」と言っただけで、同じ芝居を二度見るという事に眼を剥かれたり、今日観に行くだけでも、「あ、行くんだ」と舞台で生演奏をされていた方にちょっと驚いた風に言われるような現状の中で、明日、早めに私の所属するチームの稽古を終えて、巧く芝居を観に行かせていただけるかが凄い不安。
あと、今日、6列目、ド真ん中で見てて、しかも、「一張羅着てきて」といわれてたせいで、女の人たちは皆フォーマルなドレスやら、チャイナドレス、民族服といった凄まじい状況の中(ほんとに何処の国なんだかわかんない位の状況なんです。 人は皆『変身願望』言い換えれば、『コスプレ欲』を抱いて生きているのですね)、私も「CRB」前に購入した、黒いデコラティブワンピースを着てっていて、地方都市の芝居観客としては若干浮きがちな上、先日「あなた」よばわりされていた私は、「お母さんの物まねをする人」から、本日「寺山の人」(私は、寺山修司について語る台詞を自分で考えて、ひゃーひゃーと舞台上で、頭のてっぺんから出すみたいな声で言わせて頂いているのですが)へと見事、昇格だか、降格だか、人事異動だかしており、真正面にイッセーさんの姿拝見しつつ、「明日は、是非、後ろ端といった目立たぬ場所で見たいものだ」と考えてみたり。

折角「寺山の人」まで階段登れたのに、「二度見てる人」降格はいや!

この、絶対に名前を記憶しようとしない感じについて、その生演奏をしてくださっている音楽家の方にお伺いしたのだけども、「名前を覚える」という引き出し自体がないそうなんですよ。
「何となく雰囲気とか、会った時のシチュエーションとか言って貰えると思いだせるんだけどね、名前を覚えるっていうのは出来ないね〜」
そういう風にシレ〜ッと仰った演奏家の方は、私が芝居前に「畜生。 酒飲んでガソリン入れてぇなぁ」と無意識に呟いていたのをお聞きになってて、「飲みそうだね〜」と嬉しげに言ってくれたので、多分「お酒飲む子」として明日までは私の事を記憶にとどめてくれるでしょう。


あと、予想外なのは、ワークショップ参加してるせいで、サイン会に並べない事ね。
そのときは私達ダメ出し中だから!
とにかく明日は、DVDやら、書籍やら買って、そのどれかにちゃんとサインペンも持参してサインしてもらわにゃ、気が治まらない!
なんか、そこで手を打とうという気がしてきたし、そういう距離感にいきたい気もしている。
今は、遠いような近いような不思議な状態で、自分の席の真後ろから、イッセーさんのダメ出しを聞いている状況は、ちょっと不可思議が過ぎる。
サインをねだるような距離でいよう。
そこを私のイッセー尾形へのスタンスにしよう。



灰谷先生じゃないんだよ、イッセー尾形は。

そこを、ちゃんと本能から理解しよう。

私は失った穴を、イッセーさんで埋めようとしてやいまいか、ちゃんと考えるべきだ。


灰谷さんに預けていた分は、自分で、何処かに捨ててこなきゃいけないんだ。
もう、アレは、諦めなきゃいけないんだ。
寂しいけれど。
寂しいけれど。
待っててくれる人を失うっていうのは、本当にしんどいものだ。


しっかし、何が凄いって、イッセーさんの芝居見た後で「私達のやってるのとは、やっぱり出来が違うから落ち込んじゃったわぁ」って言ってる方がいらっしゃった事で、もうね、もう、思わず眩暈がした。

比べるドコロの話じゃないじゃん!!
ていうか、本職の役者でも生半可な人では、それ言えない台詞だよ!

イッセー尾形と、どうして自分たちを比較できるんだーーー!!!と、叫びそうになりながら、項垂れてみたり。

しっかし、何て自由を見たのだろう。
間違いなく不自由な場所で、完全に解放されているあの眼を見て、私は着替えの最中、くっきりと肩甲骨が浮き出ていたイッセーさんの背中に翼を探す。
あっても不思議じゃない。
尻尾とか生えてても何も不思議じゃない。
何にでもなる人だから、あっても、全然驚かない。
痩せた骨の浮きでまくったからだ。
最初出てたときおなかが出てたから、年だししょうがないね〜とか思ってたら、詰め物をしてらして、それを外したら、あばらが完璧な形で浮き出ていた。
おお、いい出汁が出そうだとかちょっと見惚れた。

細い撫で肩や、足首を見てると、この体型は「何にでもなれる為」に維持してるものなのだろうなぁと分かる。
女の子にも、おっさんにも、ギャル男にも、男子高校生にも、なんにでもなれる、細い体。
和食店の店員の女の子なんて、本当に可愛かった。
茶色の髪がひゃらひゃら揺れて「わっかりませーん」ってすっとぼけた声で言うの。
椅子に座ったら、足がひらひら動いて、頬とか、口の動きが、完璧に可愛い。
女として当然大敗。
あの子の可愛さには完敗でいい。

中身54歳とか、関係ない。
女の誇りとか、全然ない。


眼が、キラキラしたり、くすんだり、必死に瞬いたり、疲れきっていたり、ほんとにね、違うんだ。
全然違うんだ。

何かを演じているときのほうが自由なのか。
何かを演じている時のほうが寂しくないのか。

その上が良いのか。
その場所が良いのか。

舞台の上が良いのか。

孤独だという。
今日も、自分は孤独だって言っていた。
自分だけが孤独なんですよ!なんて訴えていた。



なんだよ。
だって知らないよ。

孤独が「寂しくない人」なんて、初めて見たよ。

孤独=寂しいって思ってたんだよ。

孤独の最中に解放されている姿を見て、生き物としての不自由さを見る。



えーと、もー、語らなくてもいいよね?

いいんだよ。
語られ尽くされてるんだよ。

もー、スーパークールだ。
それだけだ。


笑い続けていた。

カッコイイ。
なんて滑稽で、愛しくて、可愛くて、寂しくて、素敵な笑いたちだろう。
面白い。
大好き。

ありがとう!! 楽しかった!
明日も観に行きます。
あと、DVDボックスが欲しいから、お金下ろしてこなきゃ!


てな訳で、語るのも野暮な位面白いぞ、イッセー尾形の一人芝居「止まらない生活2006」
お近くに来る方は、観た方が良いです。
なんか、マニアック的な風評が先立ってるような気もしますが、演目は極めて、洗練されていて、上質で、最高に面白いものばかりです!!

イッセーさんは、自分のお稽古寸前まで参加者の事を気にされていて、森田さんは演出家なのに、こっち側の稽古に来てしまっていて(本番前に!)、舞台が出来ていく裏でのスタッフの奮闘やリハーサルの音声が漏れてくるのを聞きながら、こっちはこっちで、何とか形にしようと四苦八苦してて、本番直前に衣装に着替えた姿で、イッセーさんはこっちをリラックスさせに来てくれたりしていて、サイン会だって、客を少しでも引き止めておけるよう発表会後に行っていて、ぼんやりと、ほんとにぼんや〜りとだけど、ああ、このワークショップを本当に大事に思ってるんだなぁ、イッセー尾形「ら」の人々はと実感する。


他人の、素人の、烏合の衆の、演劇を知らない、自分の芝居を見てくれないような人たちに舞台の上に立ってもらうという事を、ほんとに大切にしようとしているという事は凄く伝わってきました。

そして、この流れで、やっと私達の話をしようと思ったのだが、ああああ、うううう、そうねーー、うん、私は一番こう、責任のない所にいて、あまりの責任のなさに、弛緩し、安心しきっていたのだけれども、その弛緩人間ですら、今回舞台に立って、思う。

森田さんが怖いとか、イッセーさんが怖いとか、平田オリザって怖いとか、いのうえさんが怖いとか、蜷川さんが怖いとか、もうね、もうね、あれだ。
役者さんは、それでも皆知ってんのね。
何が一番怖いかを。

どれが一番怖いかを。

私みたいに、ほんとに出るかでないか、かなり出てない側でも分かった。
戯曲塾に作家として参加したときは気付かなかった。
役者しか知らない怖さがあるのだと思った。


「客」が一番怖かった。


客、超、怖い。


何、あれ?

怖い、怖い、怖い。

イッセーさんが暖めて、注意深く暖めて、気遣うように合間に、わざわざ警官の衣装に着替えてまで、出て、暖めて、そこまでしてもらったけど、うん、あの、大変しんどい状況になった。
お客さんは、何とか少しでも笑おうと、少しでも暖かく、優しく私達を見ようとしていてくれたのに、それでも、ダメだった。

客、怖い。
優しい客なのに、怖い。

私はいつも観客の立場だから、そうか、こんなに恐怖心を抱かれる立場にあったのだと、意識を飛ばして、別の優越感を得ようとする位、大変だった。

スタッフの方や、イッセーさん、森田さん達が、ほとんど辛辣なダメ出しをせず、なんとか優しい口調で、色々諌め、盛り上げ、少しでも褒め、最後総括的な、とにかく曖昧な感じで、「素晴らしかった」と仰った事で、理解した。


あ、ダメだったんだ、と。


客の反応で分かるよ、大体。

私は、言っておくけど、客視点なんだ。
脇に控えていても他の方々を見てる時は、完全に客視点なんだ。

この発表会は気が向いたら料金を払ってくださいっていう制度をしいていて、私だったら、払わないなぁと思った。
誰がダメではなく、色々足りないとこがあって、それでも欲張ったのとか、意識が付いていかなかったのとか、一生懸命やっても、巧くいかないことなんてたくさんあるから仕様がないと思わずにいられないようなこととか、そういうのが積み重なっていて、大変可哀相な状況になっていた。

私は、私の立場を本当に喜んだもの。

凄く責任のない場所で、居た堪れないなんて、他人事のような感想を抱ける程度には何とか心に余裕があったのだけども、やっぱり最後お客さんに頭を下げてるときに「申し訳ない」という気持ち万歳になっていて、だから、それは誰が悪いとかそんな事一切思わないのだけど、この舞台の上に、立って頭を下げているときに感謝よりも「詫びる」気持ちが強かった事に、役者って大変だなぁと、やっぱり感じてしまう。


しかし、不条理劇と呼ぶにも、筋立てがあると見るにも無理な状況の中、私は客目線で「ああ、もう少し私達に理解できる風にならないだろうか?!」とか考え続けていて、鴻上さんのように「真実は不条理なんだよ! 訳が分かんなければ、分かんない方がいいんだよ!」なんて境地辿り着ける筈もなく、おおお、スタッフの人が「『今』感動しました」と言っているのを聞いて、いや、貴方の感動はいいから、明日は、少しでも、客との相互理解をさせてくれ!と祈るばかりでございます。


やっぱ、ウけなきゃだめだ。
やっぱ、楽しんでもらえなきゃダメだ。
素人なりに、そこはやらないとダメなんだ。

無責任な立場とか思ってないで、少し私も考えよう。
心に隙間を作ろう。

明日で最後。

寂しいと思う。

寂しいなぁと思う。


ですので、精一杯、明日を楽しみます。