カフカの話

ぼくは、自分を咬んだり、刺したりするような本だけを、読むべきではないかと思っている。もし、ぼくらの読む本が、頭をガツンと一撃してぼくらを目覚めさせてくれないなら、いったい何のためにぼくらは本を読むのか? きみが言うように、ぼくらを幸福にするためか? やれやれ、本なんかなくたってぼくらは同じように幸福でいられるだろうし、ぼくらを幸福にするような本なら、必要とあれば自分で書けるだろう。いいかい、必要な本とは、ぼくらをこのうえなく苦しめ痛めつける不幸のように、自分よりも愛していた人の死のように、すべての人から引き離されて森の中に追放されたときのように、自殺のように、ぼくらに作用する本のことだ。本とは、ぼくらの内の氷結した海を砕く斧でなければならない。
カフカの手紙」より

ガツンっとね、殴られましたよ。
これは、痛いですねー!
とゆうことで、ユキオしゃんのトコの日記に書かれていた「カフカの手紙」の一部を更に引用という意味の分からないことをしてみたり。
いや、でも、これは、ううむ、あの、読まねばという気になりました、本を。

最近私は、映像の方ばかりにかまけていて、視覚的なものを大層重んじるようになっていて、ちょっと本を読むのを怠けていましたので、この手紙の一文に「文学」の威力を見て項垂れました。

カフカの「逮捕+終わり 『訴訟』より」という評論なのですが、サイトの方でダウンロードして読めるとユキオしゃんが書いておったので、速攻読み始め、半ばまで読んだところで、余りの面白さに「これは、本で読みたい!」と焦燥。
とりあえず、明日本屋さんに取り寄せのお願いをしてみようと思っています。
そん位面白いの。

この評論の中で、「文学でしか表現出来得ないもの」について言及されていて、私はその事を、随分長い間忘れていたような気がしたのです。
あ、そうだよ。
どの分野にも、その分野でしか表現し得ないものがあるように「文学」にしかありえないものがあるんだ、というのをね、当たり前の事なのに、今日、思い出させて貰った。
小説、ほんとに読めてなくて、伊坂幸太郎とか、恩田睦とか流行どころっぽいのは一応抑えてあるんだけど(「夜のピクニック」買ったまま放置してある! 読まなきゃ! あと、「チームバチスタの栄光」の続編の「ナイチンゲールの沈黙」も買ったのに読めてないし、有栖川アリスの「スイス時計の謎」も読みたいし、「邪魅の雫」も、「ゲド戦記」も買ったままで、置いてあるよ〜!)うう、不甲斐ない。

あと、今日、芥川賞の発表があって、距離感なく「うぐぅ!」と悔しがってしまった私を、恥じながらも告白。

だって!
だって!
23歳って!!!!

青山七恵さんは、もう、いいや、恥ずかしいけど、私がどうしてこんなに距離感なく悔しがるかちゃんと記すと、藤沢周先生から言われてたんです。
「momiziさんは、もう青山七恵位は書けてるから」って!(恥)
それは、もちろんおこがましい話で、ちゃんとあの、「ああ、言い過ぎの褒め言葉だなぁ」とは自覚してるのですが、それでも、こういう風に名前を聞くと、「やっぱり、遠いじゃん!」みたいな凄い、堪らない悔しさがあって、自分のいる場所に歯噛みしたくなりますねー!
己を知らないというのは、私の特性の一つなのですが! しかし! 悔しい! ばか! 悔しがるな!
でもさぁ、でもさぁーーー!(くどくどくどくど)

で、とにかく、カフカを読もうと思いまして、その紹介させてもらった評論読む限りでは、私はカフカ、「変身」位しか知らないのですが(しかも、読んでないし)とにかく新しい手法で小説に取り組んでいた、文学の歴史を「カフカ以前と、カフカ以後」に分けてしまえる程の作品を遺しているようで、それを読まずに死ぬのはものっそい損だよ!って私の大好きな安部公房もプッシュしてきてて、とりあえず読みたいのはカフカ。(そんで、最初だし、やっぱ「変身」からにしよう。 うん)
あと、途中まで読んで頭がフワフワしたせいで、読むのやめてた「ドグラマグラ」も集中して読みたいなぁ。

まぁ、読書に勤しむのと平行してね、本を作るのもちゃんとやりたいのですが!

うへへ、イベント楽しみだなぁ!
行った事がないので、頭の中で想像ばかりが膨らむのですが、同時に、ええと、二次創作で、私がどこまでの作品が書けるのかを見極めたいなぁという気持ちもあります。

カフカの手紙の一部のように、私は読んでくれている人に、必要な本。 読んでくれている人を、このうえなく苦しめ痛めつける不幸のように、自分よりも愛していた人の死のように、すべての人から引き離されて森の中に追放されたときのように、自殺のように、作用するような本を書けるように努力しようと思ったのです。

それは、高みを目指すとか、向上心を持って文章に取り組むとかそういのじゃなくて、多分私の手法とか書けるものに差異はないのですけど、「そういう意識を持つ」という事が重要というか、そういう意識で二次創作に取り組むということは果たして、どういう結果を生み出すのか、自分にどういう変化を齎すのかが凄い楽しみなんです。

そして、同時にカフカ程の「言葉」「文学」に対する厳しさを私は持つ気はないし、今の時代、「心の問題」につまづいたり、ただ幸福であろうとする事に色んな手段を用いなければいけないところがあるので「本によって享受できる幸福」を私は重要だと思ってるし、本で心を癒やそうとするその心根を決して卑しいとは思わないのですが、ただ、私は、私の性質ゆえに、「私の書く文章で、誰かを陽だまりにいるかのような幸福な気持ちには決して出来まい」という諦念があって、だから、私はカフカのいう「自殺」のように作用する小説を最大の高みに見据えるべきなのだと決心したのです。
一言でいうならば、「傷つける文章」。
ゆっきーさんがチャットでよく仰ってる「人を傷つける」文章を書こうと思ったのです。(それは書くまでもなく、単純に他人の悪口を書き連ねるとか、誹謗中傷を行うとかそういう意味ではないのです)

私の思う傷の付け方とカフカの述べる傷の付け方には、多分大きな隔たりがあって、しかも、もう一度書くけど、然程までに厳しい姿勢を文学に対して取りたいとは考えてないので(とはいえ、生前世間から無視し続けられたカフカが自身を「文学そのものである」と言い続け、文学以外のものを一切拒否し続けたその姿勢には感嘆の念を覚えずにはいられません。 その姿勢こそが、彼の文学に結びついた…というのは、評論内にもありますが、全くそんな事なくて、作者と作品とは徹頭徹尾切り離されてしかるべきであり、人間性を語るのと文学を語るのを同時に行うのは不可能な事であると理解はしているのですが、カフカ人間性そのものに対しても、その書いた作品とは切り離した興味を抱いているのは間違いないのです)結局は、自分の中に溜まっている澱のようなものをどう文学に昇華するかという、そこへの取り組みになるのですが、まぁ、難しい事を全部取っ払って、結局一言で言えば「小説巧くなりてぇなぁ」ってことだったりして、その為にも本を読もうと、最初に戻ってみたり。

とにかく、春コミ、頑張りますよー!
私は私の持ってる手法とか、私色の文章をとにかく凝縮して取り組むつもりだし、ユッキーしゃんも仰ってたけど、真剣にやらないと楽しくない事なので、頭の中を、今はそれで一杯にしてこうと思ってます、ます。

正月休みの間に、トんじゃったDVDを見ていて、私は、オーラスで、アンコール前にバックステージで汗まみれになりながらスマ五人が一本のマイクで、声を合わせて、なのにどうしようもなくバラバラに、ひゃあひゃあと本当にトんじゃいながら歌ってる姿を見て、おうおう、と泣いてしまっていて、凄く悲しくて、悲しくて、今思い出すと、あの時私は傷ついていたのだなぁと気付いたのですよ。
そして、私は、私を一切傷つけないものなどに、興味はないのだなぁって、やっと分かったのですよ。

一切痛みのない愛なぞないように、傷つけるからこその執着なのだなぁと確信して、私は、なんとか、読んでくれる人を傷つけるべく、私の持つ言葉の刃を一生懸命今研いでいるのです。
一番痛く、気持ちよく刺せるよう鋭意努力いたしますので、機会があればお手に取っていただけると幸いです!っと、カフカの話と銘打った、長い長い宣伝でしたvv(結局そこか!)