取りとめなく岡本太郎にやられてみる

「才能があるから、岡本太郎だからやれるので、凡人には難しいという人がいる。そんなことはウソだ。やろうとしないから、やれないんだ。」

「実力がない? けっこうだ。チャンスがなければ、それもけっこう。うまくいかないときは、素直に悲しむより方法がないじゃないか。」

岡本太郎 「TAROのひとこと」より


今頃になって岡本太郎ですよ。

ほぼ日のですよ、岡本太郎の「TAROのひとこと」より抜粋。

関係ないが、私は完璧にほぼ日メイツというべき、あのサイトへの嵌り具合を呈していて、何か行き詰ると、あすこに探しに行く癖が出来ていていけない。
手帳を買うのか?
私も買ってしまうのか??
せめての抵抗に、東急ハンズ辺りで買うのだろうか???

で、今回は岡本太郎を見つけてみた。

しかし、厳しい人である。
めっちゃくちゃ厳しい。
言葉を読んでいくと、ただただ頭を垂れたくなり、頭を垂れようものなら、「そんな下らない事してないで、どんどんやらなきゃやらん事、やってないと駄目だろう」とかまた叱られそうな感じですよ。
これもほぼ日の、オリジナルラブの田島番長が色々なとこに旅したり、挑戦したりする「俺のニュース」というコンテンツが私は好きで好きで、おかげさまでオリジナルラブのアルバムも買い、スカパラとコラボった「めくれたオレンジ」もヘビロテしてしまっている、「文章から音楽に嵌る」という珍しいアクロバッツな事を行ってしまっている私ですが(そして、あのニュースのFANの方々の中には私と同じ状態に陥った方は多かろうて)田島番長は熱烈な岡本太郎FANであり、その言葉を胸に抱いて生きる熱き男であり、私は番長のようには「絶対、絶対」(二度言ってやる!)なれないけれども、しおしおしてるときは、岡本太郎は物凄い効き目を発揮する。

「うまく描くということは、よく考えてみると、基準を求めていることです。かならずなんらかのまねになるのです。だからけっして、芸術の絶対条件である、のびのびとした自由感は生まれてきません。それなら描く意味はないのです。」

「「あら、きれいねぇ」と言われるような絵は、相対的価値しかもっていない。その時代の承認ずみの型、味わい、つまり流行にあてはまって、抵抗がない。」

ここらへんは、今の自分に言い聞かせたい言葉。
あと、これも。

なんか前向きに、っていうか後ろ向きに全力疾走みたいなとこが、
もみさんらしくてよいなと思ったのと、自信無いのは私だけじゃないのね!
ってのと、もみーが大変らぶりーな感じに泣きついてきたのが可愛くて、
嬉しいので、なんか盛り上がってしまった…ごめん……
(中略)
そのうちなんとかするからね!

ユキオさんのメールより

これは、私がしおしおになりながら、送ったメールへのユッキーからの返信です。
勝手に引用です。(てへ)
でもさ、でもさ、コレを読んだ瞬間私が、もう、どんな顔をして笑ってしまったか、知ってもらいたい位の、素敵なメール文章だと思いませんか?
ちなみに、私が送ったメールはこんな感じ。

夢破れるっつうのは、辛いだろうなーー

実は、えと少し追い詰められていて、ええ、気持ち的に今追い詰められてて、
それでも小説を書いています。
4月5月は出来れば、サイトの方に手を掛けたいと思ってるのだけども、
もう、私、小説を書いている時以外で安心している時はないのかもしれない。
心の病気とか、そういう気配は一切なく、心身ともに頑健なのだけども、
本当の安心は、もう小説を書いている時にしかないのかもしれなくって、
でも、私の不安の源は小説で、そんなに私の根源なのに、
私は駄作しか書けないというところで、本当に苦しい。
こんなに賭けているのにねー、気持ちの度合いがそのまま、
作品の面白さに繋がるのなら、私はきっと傑作を書けるのに。

momiziのメールより

あははははは!
もうさー、この比較で分かるのは、私のメールのポエミー具合と、ゆっきーさんのメールの能天気の力強さであって、私は、「ああ! 私油断してまた、ポエミーな私に追いつかれていた!」と目がぱっちり開くような衝撃を受けましたですよ。
凄くこのメールが大好きで、私は多分また行き詰ってポエミーmomiziになりかけた時にゆっきーの、メールを読むことでしょう。
「あ、また、私ポエミーになってるよ!」って
ポエミーになって、たらりたらりと愚痴を詩的っぽく書き、自分を物語の主人公めいたものに見立ててる暇があったらな、小説を書かなきゃ駄目だね、だめだめ。

で、冒頭に戻る。

太郎センセのお言葉である。
これを読んで、私は今日土曜出勤だったので、お仕事をてこてこしながらまたしてもぼんやり考えてました。
図面を直すお仕事は、色々無心になって考えられていいものですが、凄くまた、単純な事なんですけどね、私が今やっている全ての物事は「私がやりたい」からやっていることであり、今やれてない事は「私がやりたくない」からやれてない事なんだなという事をしっかりと自覚したのです。

はい、何を当然のことをです。
この「高1パート2」(「高一」の部分は、たかいちと読みます。 私的略し方です)で時々お目見えの「何を当然のことを」シリーズです。

齢18を超えた辺りからですね、人間は自らが「自発的に」行う行動というものが増えてきます。
所謂「社会的存在」であるところの大人となったわけであり、自らの判断で色々な行動を起こせるようになったという訳なのですね。

で、そうなってくると色々と「あれ、やりたいなー」とか、「これやりたいなー」とか逆に「ほんとは、これやりたくなかったのに」とか、「あれ、あんな事になっちゃったけど、私は元々反対だった」とか思う事ありますよね?
私は、たくさんあります。

今、「あれ、やりたいなー」って思ってることの代表選手は「三味線」。
凄いやりたいの。
何故か、長唄三味線辺りを、トントンシャンと奏でられるようになったら、さぞかし楽しかろうという夢が止まらないのですよ。

逆に、「あれ、やりたくなかったのに」というのも、色々ある。
それは、大抵「あの時、そういう状況だったから」とか「〜〜さんが、やろうって言ったから」とか、まぁ、自分以外のものに責任を転嫁しがちになってしまって、そういうのも何とも心地が悪かったりする。

でも、まぁ、それもこれもあれもですよ、結局は自発ではないのかと、冒頭の言葉を読んで思ったのです。
あと、これでも。

「いまはまだいずれまたなんて、つまらないゴマカシだ。」

幾ら、「やりたい、やりたい」と思っていても、今やってない事はね「やりたくない」事なんです。
自分にとって。
今は無理とか、状況がとか、気持ちがとか、言葉で誤魔化しているうちはね、それは「やりたくない」事なんですよ。
一言「私、それやりたくない」って言ってしまえたほうが楽なんですよ。

自分を中心とした主観で世の中を眺めてみれば、世界は「自分がやりたい」ことと「やりたくない」事に二分割されて、今やってない事は、最早自分がやりたくない事なんだと思ってしまえば、大変楽になりました。
行動を起こしてないくせに、「やりたいんだ。 いずれは、果すんだ」と言っているような事って、多分やりたくないんですよ。
で、そんな自分がやりたくもない物事に囚われて、色々言葉を費やしているのなら、今自分が取り組んでいる本当にやりたい事に懸命になった方がずっと建設的だ。
もし、「いや、違うんだ。 やりたいんだ。 私には夢があって、それは絶対に『やりたい事』なんだ」っていう事があるんなら、もう、やっているはずです。
その自覚をした瞬間体は止まらないはずです。
行動を起こしている筈です。
そういうものなのです。
その為に動いて下さいよ。
それが間違いなく「あなたの本当にしたいことならば」。

んで、逆にです、仕事とか、まぁ、色々ですよ、「やりたくないな〜」って事あるじゃないですか。
でもね、それも今その為に時間を費やしているのなら、やはりそれは自分のやりたいことなんだろうなーと思うようになりました。
こんな事したくない!といいながら、そのために動いているならば、やはりそれは「自分がやりたくてやっている事なのです」
勿論、仕事の場合ですと「上司に言われて」とか友達づきあいの中で「空気を読んで、一緒に行動しないと…」という事はあるでしょう。
それがコミニケーションであり、大人というものですから。
でも、それはやはり、「自分がやりたい事」なのです。
本当にやりたくない事でしたらやりません。
動きません。
行動を起こしません。
「人間関係を壊したくないから」「仕事をこれからも円滑に進めて生きたいから」自分は行動を起こしたくて、起こしたのです。
後悔する事が先に見えていても、それでも行動に加担した以上「私がやりたくて、これはやったのだ」という自覚をせねば、自分に責任を見出し「本当に後悔」する事は出来ないでしょう。

私は今、働いて、小説を書いて、夜更かしをして寝不足になって、芝居を見て、スマップに熱狂して、ラーメンズさんのコントに大笑いして、バナナマンも凄く気になっていて、それら全ては「私自身がやりたいからやっていることだ」という自覚の元に生きています。

全ての行動は己の自発によって行われているという認識は、自分が起こした行動の全ての責任の所在は自分にあるという当然の自覚を促し、同時に、だからこそ気楽にしてくれます。
やりたいなーなんて言いながら、出来てない事は、別にやりたいことじゃないので、そこに捉われる事はないんですよ。
言い訳してる時間が勿体無いんですよ。

だから三味線はきっと、私は「やりたくない」んですよね。
面倒臭いとか、色々な事が先にたって「やりたくない」んです。

皆さんはどうですか?
「やりたい、やりたい」って言いながらやれてない事ありませんか?
それ、きっと貴方、「やりたくない」んですよ、ええ。
もう、言葉が追いつかないですもの、本当にやりたい事は。

私は、自分が小説を書くという事に思い至った瞬間原稿用紙を引っ張り出してましたし、芝居が見たいと思った瞬間チケットを取るために奔走してました。
そういうものなんだろうなー、本当にやりたい事は。
才能あるなしとか、状況が整ってる、整ってるとかじゃなくて「今、それやってるの? やってないの?」という事なんだろうなーと思う春の夜。

逆に、大してその気もないのに、やっちゃったよーというようなことも、やっぱり私はやりたくてやったのだ!って思い切る事にします。
言い訳しない。

見た芝居は、見たかったから見たのです。
買ったものは、買いたいから買ったのです。
全ての自分の友人は自分が友人でいたいから、友人であるのだし、恋人も同じだし、人間関係とは自分が「こうありたい」と思っているからこそ、そのように構築されていくのです。(まぁ、ゆっきー曰く全ての恋は片思いであるらしくしかも太郎センセも同じ事を仰ってらして、ゆっきーと太郎センセの気持ちのシンクロ具合に慄きつつ、相手がある事は自分の思い通りにならない事も多々あるものだと考えはするのですが…)
何かを好きになった瞬間は、私が好きになりたいからそれを好きになったのです。

自発ですよ。 全て。
人は己の自発で動いています。
それが他者に侵害されるという事は、本当に忌むべきことでなければならない。
誰かの強制によって自発を阻害され、阻まれることこそが、真に憎むべき罪悪でなければならない。

何が言いたいのかというと、やりたい事をやって生きているのだから、責任も自分にしかないのだなーと感じたというそれだけなのです。

では、最後にもう一言いただきましょう。

「人間には個人差なんてない、やろうと決意するかしないかだ!」

責任の話を中心にしてたけど、多分こういう事ですよ、今日私が書きたかったのは。

もう一遍書いちゃいますけど、今やってない事は、やりたくない事なんですよ、自分にとって。
行動してない事は「やりたいんだ」って言えることじゃないんです、きっと。

此処まで書いて。うんうんと頷き、私は私自身の決意に「おお、太郎に感銘を受けてなんて、かっこいいな!」などと、浅はかな事を思ったりしたのですが、そんな私に妹が「ねーねー、おねえー、おねえが前さぁ、サイトの改装したいって言うから、あたし絵何枚か描いてストックしてあるんだけど…改装いつよ?」と問いかけてきまして、私は自分の決意を思い出し、迷わず言いましたね!


「えっと、やるよ? やりたいよ? やりたいけど、ほら休日出勤多いし、ちょっと今忙しいから…」


センセ、人間とは大いなる矛盾を含む生き物でありまして…orz
や、ほんとにやりたいんだよーー?????(言い訳で終わる)