閑話休題

東京の話の間を書いている間色々起こった出来事や、考えたことをにょろにょろっと書き記し。


そういや今更ご報告ですが、ビリーやってまして、これが私の性にあってるのか、一応一週間続いてます。
とはいえ、バンド使用してませんし、ついてけない運動も多々あるので、「ちゃんとやってる」とは言いがたいのですが、ヴァームでアミノ酸摂取後にビリーやって、汗をだっくだくにかいて、シャワー浴びて、ポカリで水分補給という流れは気持ちが良く、「おお、なんか体に良い事をしたっぽい!」という爽快感に酔うのもまた一興。
ビリーさんの励ましに、近頃では虚ろな目で「イエッサー!」と答えている時もあり、このまま除隊せずに最後まで突っ走りたいと思います(普通は一週間のプログラムなのですが、私は全て二倍の日数をかけて取り組んでいるので、全部終えるには二週間かかります)
日ごろの運動不足をここぞとばかりに解消しつつ、ダイエットにも励んでおるのです。

さて、ダイエットといいますと、最早趣味というような、「過食→ダイエット→過食→ダイエット」の繰り返しを行ってきた私も、今年の夏は結構がんばれまして、ビリーの最後の後押しもあったおかげか、昨日の同窓会では、そこそこ体型の変わりようや、外見の変化に驚いてもらえ、同窓会の醍醐味を満喫。
てか、学生時代は、髪もぼさぼさ、化粧当然せず、服もよれよれのTシャツにジーパンで、Tシャツは三日間くらいのローテーションを組ませて、済ましていた私ですし、現在の職場でもほぼ同じような状況ですごしている私としては、学生時代と本気で何も変わってないよ?ってなものですが、イベント時や、遊びに行くときは「ハレの日」と認識して、私に出来る範囲の気合の入れ方をするが為に、昔の友人からすれば、そのたまの邂逅の姿に「大人になったね〜」と驚いていただけるのも、また然りなのかもしれません。

で、そのときお世話になりました恩師にもお越しいただけまして、幹事の子がデザートのお皿に「先生ダイスキv」チョコソースで書いてくれるよう仕込んでいたり、ピザ職人の元同級生が張り切ってテーブルサービスしてくれたり、お勧めのピザを焼いてくれたりと、本当に幸せな時間をすごせたり。
本来ならば先生のお隣には幹事の子が着席すべきなのですが、大人しい人なので、彼女が遠慮した結果、私が咄嗟にお隣にお邪魔させていただいて、そこから、私、怒涛のようにしゃべり、人に話を回し、先生のメニューを読み、酒を飲んでテンソンを上げて、また話という、とても、エキサイティングな時間をすごさせていただきました。
その日は、いつものごとく爪にもシール貼って、服も先生にお会いするのだしと、出来るだけ上品めのを選んで、体型も整えて、その上で、幹事を差し置いてしゃべり散らして、折角お越しいただいた先生に楽しく過ごして貰おうと心を砕いて、ぐったりしながら帰宅する途中で、本当に楽しかったし、幸せだったのだけども、色々振り返って、「ああ」と呻いてしまったり。

こう、この、「うーーーわーーー!!!!!」って叫びだしたいような、うろうろしたいような気持ちっていわゆる「はりきりすぎた自分」への羞恥心ってやつ?!とか、そういうね? 気持ちが満載になってしまってるんですよね!

先生は、「こういう風に振る舞い、場を盛り上げようと心がけるのは、この中では貴方にしか出来ない。 貴方とお酒を飲みに行きたい」と仰ってくださって、私としては、そういうお言葉をいただけたのだから、振り返って思い悩むのはやめようとも思うのですが、基本的にすぐ張り切るし、全力投球だし(自分が楽しいことだけ)、停滞が苦手だし、沈黙も苦手だしという根っからの鬱陶しい系性格ゆえに、「先生を話題の中心になるようにして学生時代の思い出話を掘り下げていこう!」みたいなテーマを自分に勝手に科し、口を休める暇もなく喋り捲り「そういうとこは変わらないね」という言葉をいただいて、その日四時間たっぷり楽しんだ同窓会も無事終了。

一応、連絡先交換し合った友人たちから「楽しかったよー!」というような嬉しいお言葉はいただいたのですが、そもそも、「それがどうなのか?」という事ですよ。
私が、そういう風に振舞ってよかったのか?っていう後悔ですよ。

そいで、まぁ、自己嫌悪といいますか「うーーわーーーー! しゃべりすぎた!!」ってやつですよ。
私が勝手に気を回しすぎただけで、もっとしゃべりたい人いたかもしれないし、私なんかがそこまであせらなくても、会としては穏やかに進んで行ったかもしれないし、私がぐったりしているのを見て「そんなに気を回さなくても大丈夫だったよ?」と友人にも言ってもらって、「あーーぎゃーー!!」とのたうち。

そうなのよ!
その時は「私が喋らなきゃ、みんな、それぞれ隣に座ってる友達と話しちゃって(いわゆる合コンで、女の子は女の子同士、男の子は男の子同士で喋っちゃうっていう状態)先生を一人ぼっちにしてしまう! それだけはやだ!」とか幹事の子が話し出そうとして「えー、と、何にも考えてないし、どうしよう…」って真正面でつぶやいていたものだから、勝手に口火を切っちゃって、そっから後に引けなくなったとか、色々言い訳したいのだけど、何にしろ自分が「おこがましくなかったか?」「勝手な思い込みで、暴走をしていなかったか?」ということだけは、ちゃんと考えて反省をしておこうと思っていたり。

張り切ること、全力を尽くすことは良い事か否かという問題において、そのポジティブな響きゆえに「良い」と判断されがちではあるけど、その場、その場によって、そこは変化するものだから、昨日の自分の恥ずかしい感じというのはちゃんと覚えておいた方が良いなーと考えました。


で、そうやってうーわーってなりながら、思い出したのは「ほぼ日」の日替わりコラム「今日のダーリン」にて、糸井さんが書いていた「正しいという事が力を持ちすぎるのはあまりよくない事じゃないかな?と思うのです」という言葉(今日は話題が二転三転するよ!)です。

その言葉に至ったのは、前日のコラムにて、「パンツ」って言葉を、「下着のパンツに使用する? そいとも、スラックスとか、ズボンについて使用する?」というような記事をお書きになった事からでした。 その記事に対して集まったご意見の中に「言葉の正しい用法」についての意見等もあったみたいなのですが、自分は「その言葉の用法が正しいかどうかということにはさして厳しい立場をとっておりません」と表明なさいまして、そのうえで「正しいという事が力を持ちすぎるのはあまりよくないと思うのです」という言葉に繋がったのですが、私がその文章がどうにも頭に残って離れないのです。
つまり、その言葉は大変私にとって心地良い言葉だったのですね。
私がその文章に反応、それも好意的な反応を示してしまうのは、自分が余り「正しいこと」っていうか、きちんと「正解していること」を然程重要視しない性質だからかもしれないなぁと考えたり。
東京にてKとこ姐さんと新撰組!の話で盛り上がったときにも思ったのですが、あのドラマは然程「歴史的に正しいとされている事」を重視せずに書かれたドラマでした。
それよりも、物語としての楽しさや、歴史の余白の部分に書き込みをいれてみる事に対して情熱を燃やしていたようなドラマと申しますか、そういう部分に対して歴史ファンの方が「けしからん!」という反応をなさるのも、逆に私のように「面白かったらいいじゃん!」と言ってしまうのも、それぞれであり、「歴史上正しいかどうかはどうでも良いけど、単純に面白くないから」という意見があるのも、一つの作品に対して起こる反応として、各個人の自由だったり、好みという言葉で片付くべき結果のように思えるのですが、それでも、なんというか「これは〜だから、時期的に見ても〜という歴史上ありえない! だから、このドラマはだめだ!」という言葉に対して、勝手ながらも「そうか、史実はそうなのか…」と無知ゆえに怯むことも多々あり「正しい」という事は確かに、力あるものだなぁとも感じていたり。

すごく当たり前の事なのですが、「正しい」というのは、もう、各それぞれに基準があり、それを押し付けあったり、強制しあったりっていうのは、やっぱり出来ないものですからね(但し、「社会のルール」等基本的且つ一般的なものを除くっていうか、人に迷惑をかけないため最低限のルールは正しいか否かを論じる前に、まず守るべきだとは思うのですが)

私は、時々断定口調でものを断じがちで、その度に、「それは正しかったのか?」「私の述べた事に間違いはないのか?」と振り返っては立ち止まります。
何事もそうなのでしょうが「これはこうなんだ!」と何もかもを、自分自身の判断で断定し、突っ走るというはすごく怖いことだと思うのです。
出来るだけ不安に思う。
出来るだけ振り返る。
私は間違ってないか。
私のしている事は、誰かの不快になりはしないか。
誰かの不快になるとしても、その行動を取りたいのか。

100%全ての人に好まれることをやってのけるという事はほぼ不可能ですし、世の中には「生理的に気に食わない」という悲しい言葉もあって(これって、水戸黄門の印籠のごとく通用しちゃってる言葉ですし、人間である以上しょうがない事なのでしょうが、もしこの先私が使用する場合は、自分自身が言われてしまったらという事だけは念頭において使いたいなぁと考えていたり。 言葉ですら説明出来ずに嫌われる、嫌ってしまうっていうのは、理屈が一切ない分、まったくもって始末に負えないのでしょうね)みなに好いて貰おうと思っていても、なかなか難しい所はありますが、自分がその言葉を書きたくて、書いたことを後悔しないでいられるのか、もしくは、例えこの先後悔しても良いと思える覚悟はあるかという部分まで踏まえて自分の意識に徹底させていたいなぁとは思っていたり。

と、同時に、世の中には、それでも「正しい」という事がすごく強大な力を持っていて欲しいと思う事象もわずかばかりはあって、やっぱり複雑だなぁとも思うのです。

例えば、最近ですと、ネットで集まった男たちに理由なく殺害された女性のご遺族の方や、未成年の少年に家族を殺害されたご遺族の方等々、無知な私が簡単な意見を述べる訳にはいかないのですが、それでも「正しい」という事が、その方々の強大な味方になって欲しいと思ってしまうのです。
正しいという事が、一番傷ついた人々の背骨を支える絶対の力であって欲しいと思うのです。
正しいという事が、突然訪れた悲劇に対して立ち向かう最強の武器であって欲しいのです。

そういう出来事を前にしてその正しいとされている事が本当に正しいのかどうか?という部分にまで悩んでいくと、シェイクスピアな「それが問題だ」的思考の迷路に陥りそうになるのですが、それは、それとして、「正しい」という力によって導かれた結末が、全てが終わった後の、遺族の方にとって生きていく希望を見出せるものであれば良いと切に祈るのです。
なんにしろ、「正しい」という事は、きっと、中立的で、どこのスタンスにも属しないからこそ「正しい」と呼ばれるものであるのだろうなぁとわかってもいるのですが、それでも「正しい」という事が少しだけでも「優しい」という事を含むものであって欲しいというのは、夢見がちなのでしょうか?

で、結局イトイさんのコラムと、私の同窓会の話が何で繋がったのよ?といいますと、同窓会で喋り捲っていた際にはそれが「正しい」と思って振舞っていたけれども、振り返れば、そうは言い切れないし、何事にも反省って必要だなぁという事だったりして、あんまり考えすぎるとこんなにも、主題から遠く離れた場所に結論が着地するのだから、考えすぎも問題じゃない?みたいな、そういうことを考えがちな秋の夜です。

ていうか、ほんとに、夜はすごく涼しくなったなぁ。